輝け杉の子像(川崎市学童疎開記念碑)     

1.川崎市学童疎開記念碑建設事業の経過について 

1984(S59)
11月頃
大山正幸先生から川教組に協力要請
「戦後40年、この節目をおいては他に時期はない、学童疎開に参加したひとりの教師としてなすべきことをこの機会にしておきたい。おそらくは参加したどの教師も胸の奥でそう思っているに違いない。学童疎開の概要を掘り起こし、大山辺りに記念碑を建てたい。ついては川教組としても協力してほしい。」'
※当時の学童はこの年、53~58才になっでいる。
大山先生の当初の考えでは200万円くらいの予算を考えられていた。その内の100万円程については市から補助がもらえるように働きかけてほしい。
12月24日 川教組による予算についての市長折衝でその旨要請
市長の反応「大変いいことだ。石碑等ではなく、モニュメント像にした方がよい。予算も1000万ぐらいつけるよ。」
現実には川崎市から600万円の補助金がつくことになった。
   
1985年(S60)
1月28日
準備会開催(坂東、大山、和田、杉山、大橋、川辺)
2月9日 記念碑建設地についての現地折衝(大山、潤辺)
2月12日 川教組情報号外による職場討議資料
事業内容として、8月15日を目途に
・学童疎開の実態を明らかにする。
・大山町(現伊勢原市)の適地に記念碑を建設する。
川教組が事務局を担う。
財政確立のために
・川崎教文研から100万円を拠出する。
・市民、教職員のカンパ活動をすすめ、総額1000万円を確保する。
2月18日 第2回準備会
3月2日 第1回実行委員会
実行委員の構成
 委員長     坂東忠彦
 副委員長    小中高校長会長、管組委員長、教組委員長(森山)、市労連委員長、教育次長、総務部長、市P協会長
 事務局長   大山正幸 
 事務局次長  宮崎和子、川教組本部役員4名(川辺、菅原、神田、高橋)
 委 員     (記念碑建設委員長)和田弘、
          (記念誌編纂委員長)大橋美
          (会計委員長)田辺団治、  会計 内田信之、桑畑祥生
          疎開24校の学校代表教師、同当時の児童代表約68名
事業内容として
 ア、記念碑の建設ブロンズ像を3月中に円鍔元規氏に依頼
 イ、記念誌の発行2000~3000部
 ウ、寄付金の募集1000万円目標、1口1000円で一般からも募る。
 (以降、4月20日、6月29日、7月27日に実行委員1会)
5月15日 記者発表 各紙とも大きく報道
5月 PTAを通じて趣意書(カンパと記念誌への寄稿要請)を配布
6月7日 現地折衝(大山、川辺)
環境庁からクレームがあったが最終的に理解得られる。
8月12日 記念碑「輝け杉の子」除幕式(伊勢原市大山)
10月19日 記念碑除幕式(川崎市枡形山)
11月22日 記念誌「輝け杉の子」発刊
12月7日 第5回実行委員会

2.大山と枡形山に学童疎開の記念像を(1985年5月)

川崎市学童疎開記念碑建設実行委員会 (代表坂東忠彦)

 私どもはことし終戦40周年を迎えるにあたり、それは同じく川崎市の学童疎開解散終了40周年でもありますことから、当時数千人にのぼる多くの川崎の子どもたちを受け入れでご協力下さった方々への感謝の気持と、再びこのような不幸な事態を繰り返さないという平和への強い願いをこめて、伊勢原市大山と川崎市生田緑地枡形山広場に記念像を建設することとし、さらに当時疎開にかかわった教職員・学童による記念誌の発刊を行いたいと考えております。
 記念像は、当時の児童男女二体のブロンズ像とし、製作をその道の権威円鍔元規氏に、.ご依頼、除幕式を本年8月中に行う計画にしております。また、記念誌は当時の参加24校の疎開生活の実態を明らかにし、かかわった教職員・児童による文集としてまとめ、この秋10月末の発刊を予定しています。
 幸い、この運動には川崎市教育委員会はもとより、小中高の校長会教頭会、市PTA連絡協議会、川崎市教職員組合、川崎市労働組合連合会、県教育公務員弘済会等、巾広いご後援をいただいておりますが、一般市民の方々にもご参加いただける草の根運動になってほしいと願っております。そこで当時疎開にかかわった方はもちろんのこと、この趣旨にご賛同される一般市民の方々のご協力を心からおねがいする次第です。 

3.学童疎開記念像の碑文

伊勢原市大山 記念碑の碑文

 学童疎開は昭和19年6月30日に閣議決定国民学校初等科3~6年生について実施された。
 川崎市は中・南部24校の集団疎開先を中郡14か町村(一部、川崎北西部・津久井郡)に決定、7100余名の該当児童のうち、その3200余名をこの大山に疎開させた。すなわち平間・向・富士見・旭町・玉川・宮前・御幸・大師・住吉の9校の児童は同年8月21日~24日の間に川崎を出発、翌年10月、終戦による疎開解散に至るまでこの地で疎開生活を送った。
 この像は、名状し難い困苦の中から祖国の再建を期する当時の幼い子らの姿を現し、困難な中で引き受けられた全地域の方々への感謝と、平和への誓いをこめて、当時の児童教職員、現教職員、一般市民、そして川崎市の協力によって疎開解散40周年を記念して建立した。製作者は圓鍔元規氏である。最後に、当地で爆死した米須清博君の霊の安からんことを切に祈る。

昭和60(1985)年8月15日        川崎市学童疎開記念碑建設実行委員会
 
生田緑地枡形山広場 記念碑の碑文

 学童疎開は昭和19(1944)年6月30日に閣議決定、国民学校初等科3~6年生について実施された。
 川崎市は7月28日、緊急校長会を開き、35校中、24校の集団疎開先を、次のように決定した。
・川崎北西部 4校1100余名 大島(柿生)、桜本(生田)、小田(登戸・稲田)、渡田(向丘・橘)
 大山地区  9校3200余名 平間・向・富士見・旭町・五川・宮前・御幸・大師・住吉
・大山地区をのぞいた中郡 9校2300余名
 南河原(大田村)、日吉(旭・金田村)、田島(神田村)、幸町(日々多村)、川崎(岡﨑・金目村)、新町(豊田・城島村)、前沼(成瀬・相川村)、川中島(伊勢原町)、高津(高部屋村)
・津久井郡 2校500余名
 中原(吉野町・佐野川・沢井・名倉・日蓮・小渕村)、大戸(与瀬町・千木良村)
かくして総勢7100余名の児童は同年8月15日から24日の間(津久井郡は翌20年5月)に川崎を出発、20年9月、終戦による疎開解散に至るまで疎開生活を送った。
 この像は、名状し難い困苦の中から祖国の再建を期する当時の幼い子らの姿を現し、困難な中で引き受けられた全地域の方々への感謝と、平和への誓いをこめて、当時の児童教職員、現教職員、一般市民、そして川崎市の協力によって疎開解散40周年を記念して、当時桜本国民学校が疎開していた鍛錬道場のあった当桝形山に建立した。
 像の製作者は川崎市在住の圓鍔元規氏である。

昭和60(1985)年8月15日        川崎市学童疎開記念碑建設実行委員会
 

4.川教組情報を通して
 ○川教組情報(1985年2月12日)
 ○川教組情報(1985年3月9日)
 ○川教組情報(1985年4月20日)
 ○川教組情報(1985年6月17日)
 ○川教組情報(1985年6月19日)
 ○川教組情報(1985年9月9日)
 ○川教組情報(1985年11月8日)


5.学童疎開の体験
 ○
川崎市の学童疎開は(学童疎開体験ツアー資料より)
 ○川崎市学童疎開の体験(川崎市学童疎開副読本 「輝け杉の子」より抜粋)