川崎市学童疎開の体験「(川崎市学童疎開副読本)輝け杉の子」より抜粋

1 疎開が始まる
 1944(昭和19)年の夏、国の考えを受けて、東京だけでなく神奈川県でも大都市である川崎・横浜・横須賀の三市で、学童を集団疎開させることが決められた。
 川崎市で、35校あった国民学校のうち、24校の三年生以上六年生まで、七千人余の学童が171か所に分かれて疎開することになった。
 一番多くの学童を受け入れてもらう大山町では、三千人以上をむかえると町の人ロが急に増えるので、宿舎・食料・燃料から汚物の処理まで色々な問題が持ちあがっていた。
 しかし大山町の人々の理解と協力により、ようやく受けいれてもらえることになった。
 大山が疎開の場所に選ばれたのは、緑が多い山なので安全であること、子どもを受けいれられる施設が数多くあるということからだった。
 そのころ、川崎などの都市では、縁故疎開のできない人が多くいた。親たちは、子どもの安全のためといっても集団疎開というできごとを前にして悩みがあった。子どもたちの心にも、学校に残る者、縁故疎開する者、集団疎開する者が別れ別れになる悲しみがあった。それは、出発する日が近づくにつれて大きくなっていった。
2 母の心
 親もとを離れて生活する小さな子どもたちを送り出す家族は、どんな気持ちだったろう。
 荷物を入れる箱や机がわりにした木のみかん箱には、ひとつひとつ名前を書いた子どもの持ち物がおさめられていた。疎開先での子どもの生活を思いうかべながら、墨をすり筆をにぎって、たんねんに書かれた名前だった。やなぎごおりの中には、衣類などをひとつひとつ母がていねいに入れた。それが、まだ幼い子どもを、どんな場所かよくわからない土地に送り出す親たちがしてやれるせいいっぱいのことであった。
3 先生の思い
 それぞれの家庭で疎開の準備をしているころ、学校でも大勢の子どもたちを送り出すための準備が進められていた。疎開先へ何度も足を運んで打ち合わせをする先生、何十人分もの食事を一度に作るための大きな鍋・釜や蚊帳など生活に必要な道具を集めに走りまわる先生もいた。買おうとしても物のない時代だったので疎開する子どもの家にたのんで出してもらい、ようやくそろえた物も多かった。
 引率の先生も家族を川崎に残して行くことが多く、幼い子どもや年をとった両親をおいて行くことの不安は先生も同じであった。
 しかし、それ以上に、親から預かった大切な子どもたちと二十四時間生活を共にし、安全で健康に過ごさせることの難しさや責任の大きさを感じていた。
4 別れ
 昭和19年8月の暑い日、学校では、家族と子どもたちの別れの会が開かれた。見送る母親のなみだを理解することができないほどに幼い三年生(八才)から、おたがいの悲しい思いがわかりこらえている六年生までに別れの時がきた。
 校庭に集合して校長先生から疎開についてお話があった。中には先生の話も耳に入らず、川崎に残る弟のさびしそうな顔ばかりを見ている兄もいた。なみだぐむ母に手をふって校門を後にする子もいれば、遠足に行くようにニコニコしている子もいた。お母さんの着物をほどいて作った服を着てリュックをせおった子もいた。見送りの親たちが駅までの道をうめつくし、先生方には「よろしく頼みます。お願いします。」と、子どもたちには「元気で行ってこいよ。」とくり返していた。八才の子が弱気を見せずにたえているのを見て、そっとなみだぐむ母もいた。元気な足どりで行進する子どもたちの背負う荷物の中には、着がえや食料とともに手ばなす母のさまざまな思いがこめられていた。駅に着き電車に乗るまではよかったが、ガタンと発車すると女の子たちがいっせいに泣きだした。と中の昼食時間でもみんな元気がなく、母からのはげましの手紙をにぎりしめ、おいしいはずの弁当ものどを通らなかった子もいた。乗りかえて着いた伊勢原駅からの道は遠く、小さい体には長く感じられた。宿舎で荷物をほどきタ食をすますと、一日のつかれからかみんな早くねついてしまった。
 こうして、親もとをはなれ、川崎をはなれての子どもたちの疎開生活が始まった。
5 疎開生活の一日
 疎開の毎日は、先生の「起床」の声に始まる。
 六時。ふとんをたたみ、班ごとに積み重ねてから洗面をすませ、荷物の整とんをする。そして、住職がお勤めをする間、一しょに本堂に正座して、皆で一せいにお経を読んだ。ねむくてたまらずコックリコックリしてしまうこともあった。
 それが終わると外へとび出して、石だだみの上に班ごとに一列に整列して人員確認。そして、朝礼・ラジオ体操を行った。すべていっせいに動く規律正しいものであった。その後、分担して寺の庭そうじ、本堂のふきそうじをした。
 七時。本堂に上がって板の間にござを広げ、みかん箱を食卓がわりに水っぽいおかゆで朝食をとった。水っぽいおかゆの朝食は「いただきます」から「ごちそうさま」まであっという間であった。
 勉強前、晴れた日にはふとんを干した。しばらくすると勉強前に本堂の縁側に並んですわり、シラミとりをするのも日課になった。
 午前中三時間位勉強をした。近くの国民学校の教室を借りたり、本堂でミカン箱を机がわりにしたり、庭に出て青空教室で行ったりした。算数や日記を書くことを中心に、戸外に出ては写生や唱歌や体操をやった。
 午後は作業で、近くの山へたきぎ拾いに行ったり、山菜とりに行ったりした。週に二~三回配給がある時は、リヤカーをひいたり、リュックを背負ったりして受けとりに行った。
 宿舎で作業のないときは、近くの農家へ農作業の手伝いに行くこともあった。なれない仕事でなかなかうまくいかなかったが、おやつやタ食がおなかいっぱい食べられるので、一生けん命働いた。ふだんの三時のおやつは、おちょこ一ぱいのいり豆か少々のさつまいものときが多かった。
 タ方、上級生は寮母さんを手伝って、すい事当番をしたり、まきわりをしたり、おふろの水をくんだりわかしたりした。
 そしてタ食。タ食といっても、腹一ぱい食べるものはなかった。
 タ食後はニ~三日に一度入浴した。おふろのない所では、近所の農家にもらい湯に行くのが何よりの楽しみだった。
 九時になると就寝時間。ふとんをしき、「お父さん、お母さん、おやすみなさい。」と川崎の方を向いてあいさつをしてやすんだ。
 ふとんに入ると家のことを思い出し、ひそかになみだを流す子が大ぜいいた。
 父母が面会に来る日を何よりの楽しみに、小さいながらも我まんに我まんをして生活した毎日だった。
 両親のもとを、はなれてくらすだけでもやりきれないのに、疎開先でも「警戒警報」や「空しゅう警報」が出され、危険と不安におびやかされることが多くなった。
6 続くひもじさ
 「おやすみなさい。」とあいさつしてふとんに入る。しばらくすると、あちこちからすすりなく声が聞こえる。三年生と言えば、わずか八才・九才。その子どもたちが遠く親元をはなれて、山里の寺でくらすことになったのである。
 昼間は学習や友だちとの遊び、たきぎ集めなどでさびしさをまぎらわせていたが、夜になると父母の顔が目に浮かんで、あふれるなみだがまくらをぬらした。だれかがなき始めると、さびしさがまして、次々とすすりなきの合唱になってしまうこともあった。
 やがて、なきつかれてひとりね入り、ふたりね入り、みなね静まったと思われるころ、ねたはずのふとんの中からポリポリと音がする。そのかすかな音は、寺の本堂の暗い天じょうに吸いこまれるように消えていっては、また続いた。あまりの空腹にねむることができず、子どもが、家から持ってきた丸薬をひそかにかむ音だったのである。
 疎開した子どもたちにとって最もつらかったのは、食料不足によるひもじさの戦いだった。とにかく、あらゆる物資が国全体に不足していた。食料も自由に買うことはできない。主食の米はもちろん、他の食料も配給制。わずかの配給だけではとても足りず、育ちざかりの子どもたちはいつもいつもおなかをすかせていなければならなかった。
 「米の配給だぞう。」
という連絡があると、五年生や六年生は先生といっしょにふもとの村まで配給された食料を取りに行った。せなかには米を入れたりュック、手には野菜のふろしき包み。かなり重い。けわしい山坂の道を息を切らせて帰る。とちゅう、冷たい谷川の水に手をひたしては、もくもくと運んだ。
 すい事場は、庭に作られた小屋。にたきするかまどは外にれんがを組むなどして作られた。かまどで燃やす燃料は自分たちで必要なだけのたきぎを山で取ってきたものである。
 食事場所は、寺の本堂のような所が多かった。板の間にござをしき、みかんばこの上に平らな板を並べてテーブルの代わりにした。そこに並べられる一人ひとりのどんぶり。このどんぶりに八分目ほどのぞうすいやいも飯が配られる。それぞれが家から持ち寄ったどんぶりはどれもみな大きめで、少しでも多くのご飯がロに入るようにと、持たせた親の気持ちがよく表れていた。
 そのような願いをよそに食料はいつも足りず、少ない米の中には大豆やさつまいもが混ぜてたきこまれた。そうすると、量だけは少しは増やすことができたからた。そんな混ぜご飯の食事のときはまだよかった。どんぶりをのぞくと、いものくきや大根の葉の中に、茶色に変色したわずかの米つぶがやっと見えるようなぞうすいだけのことも多かった。
 調理をする先生たちは、限られた量の米やいもを少しでも増やすにはどうしたらよいかとなやみ、また、どの子にも平等になるよう、配ることに気をつかった。疎開してしばらくの間は、三時のおやつが出ることもあった。ほとんどはさつまいもやじゃがいもをふかして塩をつけて食べるおやつ。ときには、おちょこ一ぱい分のいり豆というときもあった。それでも、子どもたちにとっては、それが楽しみのひとつだった。
 やがて、戦況が悪化する。
 川崎空しゅうの後になると、食料不足はますます深こくになった。配給の食料も届かないことがあり、米はほとんど口に入らず、いもだけの代用食ですませる食事。ゆでてもゆでてもガリガリと固いじゃがいもに黒っぽい岩塩をつけて食べる。朝昼晩とおかずはきゅうりだけという日もある。
 それでも子どもたちは、分けられたいもをいつくしむように、大切に大切に食べた。
7 先生、あまくておいしいね
 農家を一けん一けんたずね、足を棒にして歩き回り、やっと手に入れた大根。その大根を小さく切って、生のままみんなでかじる。
「先生、あまくておいしいね。」
と、見上げる子どものひとみは澄んでいた。
 シラミに苦しめられ、燃えないまきになやみ、水の出の悪い井戸と戦いながらも、この子どもたちと何としてでも生きなければと思う-それが先生たちの毎日だった。
 三度の食事のしたくは先生と寮母さんの仕事。それを当番の子どもたちが手伝う。昨日までチョークをにぎっていた手に、なべ、かま、調理用具を持ち、慣れない多人数にとまどいながらのすい事。とぼしい食料の中から、何とかして子どもたちをなぐさめてやりたいとやっと手に入れたあずきで塩味のおはぎを作ったりした。砂糖などはむろんない。それでもみんなはこのごちそうに大喜び。「おいしい、おいしい。」と食べる子どもたちの笑顔が、先生たちにとって何よりのはげましとなった。
 川崎空しゅう以後、ひどい食料不足の中、先生たちはふもとの村にいもや野菜の買い出しに出かけた。けれども、どこでも食べ物が不足している。なかなか売ってはもらえない。しかたなく、山に自然に生えている山菜や山芋などを取った。
 少しでも食料の不足を補おうと、午後はみんなで雑木林へ出かける。子どもたちはつめをどろだらけにして山芋をほったり、むちゅうになって山菜をさがしたりした。ほんの少ししかとれなかったが、みんなで分け合って食べた山芋は、かくべつのおいしさだった。子どもたちは、ひもじさの中、わがままも言わずによくたえた。こんな子どもたちのそばには、なぐさめたり、しかったり、時にはかたをだいて共にないたこともある、そんな先生たちが寄りそっていた。
8 空腹の笛日
 寺の本堂に正座し、食べた三度の食事はいつもぞうすいでした。げん米に近い少量の米に、大豆かすと野菜やふきなどが入ったぞうすいが、私たちの主食でした。大豆かすの代わりにじゃがいもが入った場合はよい方で、そのじゃがいもを六年生には三切れ、下級生には二切れと分け、分配には気をつかいました。
 とにかく空腹の毎日でした。
 子どもには禁止してありましたが、農家のくわ畑のくわの実やぼたんきょうなどを、かくれて食べていました。おなかをこわしたらどうするとしかりながらも、こどもがふびんでした。
 農家に手伝いに行き、おやつにさつまいもなどをもらった時の子どもの笑顔や、たまの面会日に父母の方が持ってこられたわずかの食物を分け合って食べていた様子、親からはなれたさびしさで満たされないうつろな顔など、今でも思い出します。

9 口に入るものであれば
 養蚕の行われていた村では、蚕のえさになるくわの葉をとるため、あちこちにくわの木があった。初夏になると、こい赤むらさきの実がなる。これがあまずっぱい味がしておいしく、子どもたちはむちゅうで食べた。食中毒などを心配して食べることは禁止されていたが、こればかりは守れない。たきぎ拾いに山に出かけては、口のまわりをむらさき色に染めて帰ってきた。
 女の子たちは、それぞれお手玉をいくつか持っていた。このお手玉の中の小豆や大豆は、そのうちぬい目が破られて食べられ、中身は小石にかわっていった。
 お寺の境内には、大きなイチョウの木やカヤの木がある。これらの木が実を落とすころになると、子どもたちは先を争って拾った。いつもなら地面をおおいかくすほどに落ちる実も、あっという間に食べつくされた。そのうちに落ちている実を口に入れるばかりでなく、もう土にもぐって芽を出しかけた実までもほり出しては食べるようになった。 おなかをすかせた子どもたちの手は、口に入るものを求めてどこまでものびていった。畑のにんじんの葉、さつまいものつるや葉など、食べられるものは何でも食べてしまった。
 あるとき、にわとり小屋にへびが入った。子どもたちは、へびを恐れるどころかみんなでつかまえ、たきぎを燃やして焼いて食べてしまった。
 口に入るものならば何でも食べる。子どもたちの生きようとする気持ちはこんなにも強かった。
 疎開生活は、子どもたちにとって、空腹と戦い、生きぬいた日々だった。
10 寝ずの看病
 秋も中ごろのことだった、。その日も日課であるまき拾いから帰った。しかし、宿舎に着くなりぞくぞくと寒けがした。ふとんの中に横になったが悪寒はおさまらず、「寒い、寒い。」という私に、友だちがかけぶとんを重ねてくれた。そのうち、今度は体が燃えるように熱くなった。
 その夜気がつくと、私は二人の先生の間に寝かされ、ぼんやりした頭で、手ぬぐいをしぼる音を聞いた。山あいの村なので近くに医者もおらず、今のように手軽に氷も手に入らなかった。二人の先生は、宿舎の前を流れる清水で一晩中私の頭を冷やして下ったのである。おかげで、私の熱は翌日大分落ち着いた。
 朝、気がつくとまくらもとに一ぱいのおかゆが置かれていた。私は一しゅん目を見張った。
 「何と白く光っているのだろう。」「お米ってこんなに白いものだろうか。」
 当時、ご飯と言えばおいもや豆かす、その他野菜をたきこんだものか、または量を少しでも増やすため、水を加えてににこんだ雑すいであった。
 「お米だけのおかゆ」これは私の疎開中たった一度の経験だった。私はしばらく何も混じらない「白いおかゆ」をながめていた。と同時に、私だけがこのおかゆを食べることに後ろめたさを覚えた。でも、一さじロに入れるとまだ熱のある体にはそれはやさしく、なめらかなのどごしでみんな食べてしまった。
 母親のように一晩中寝ずの看病をし、とぼしい食料の中から一ぱいのおかゆをにて下さった先生のやさしさは、白いおかゆとともに、幼心に強く、深くいつまでも残っている。
11 先生は神様
 昭和二十年、初夏のころである。子どもたちの間に疥癬という皮ふ病が発生した。医者にみてもらったが効果がない。伝染性が激しく、集団生活だからみるみるうちに三分の二ほどの子どもたちが感染してしまった。
 はじめは手の指の間にアワ粒ほどの水疱だったのが、かくたびに手の平から足の裏まで全身に広がり、大きな水疱は白くはれ上がり、そら豆大になる。そして全身ウミだらけになり、子どもたちは、かゆさといたみのために苦しみうめいた。さすがに教師の私も、寮母も目をそむけた。
 この時、治療と看護にあたってくれたのが文子先生だった。治療といっても良い薬があったわけではない。ウミで白くはれ上がっているところを針で穴をあける。ウミがシュッと飛び散る。その穴に乳鉢ですった「雪の下」という草の汁を筆でぬるのである。下着がウミではだにこびりついている時は、ぬれ手ぬぐいでひたし静かにはがす。そしてその後に薬をぬる。文子先生は授業が終わると、毎日毎日こうした治療と看護に専念していた。
 ある日のことだった。六年生の男の子が「先生、先生!!年男君が便所で泣いているよ。」と告げにきた。文子先生は急いで本堂裏の仮設の便所へ走っていった。そこには年男君がしゃがんでしゅくしゅく泣いていた。わけをたずねると、
「便所に入りたいのだが、痛くて痛くてどうしてもパンツがぬげない。」
とうったえた。見るとウミでパンツがかたく、おしりにこびりついてはがれない。文子先生は大急ぎですい事場に行き、お湯でぬらしてそっとそっとパンツをはがしてやり、便所に入れてやった。
 数日後、年男君の症状はいよいよ悪くなり、顔色も青ざめてきた。そこで寮母さんたちとも相談し、家に帰して治療してもらうことにした。お母さんがむかえに来てくれたのは二日後だった。お母さんはやつれはてたわが子の姿になみだぐんでいたが、久しぶりにお母さんに会って年男君も泣いていた。年男君はお母さんの肩につかまって、洋服を着がえさせてもらいながら、ぼそぼそ話をしていたが、その話の中で
「お母ちゃん、文子先生は神様だよ。」
とささやいていた。お母さんはだまってうなずきながら手を合わせた。
 私たちは、年男君親子を相模川の渡し場まで送った。親子は渡し舟に乗って川の向こう岸に去っていった。
 年男君が去った後になっても、わたしは年男君がお母さんに告げていた「文子先生は神様だよ。」と言った言葉が耳からはなれなかった。肉親とはなれてのさびしい生活、その上病におかされ、痛さをこらえにこらえている時さしのべられた文子先生の愛情、その文子先生に神の姿を見たのだ。心からの感謝の気持ちが、年男君に自然にそう言わせたのであろう。
 それから十日ほどたった日、あれほど重症だった年男君がお母さんに連れられ、にこにこしながらひょっこり帰ってきた。はだはきれいになっていて、皆おどろいた。日本鋼管病院の医者にかかったとのことなのでさっそく連絡した。
「子どもたちが大ぜい苦しんでいます。どうか助けて下さい。」
 数日して、日本鋼管病院の井上先生が、ゲートル姿に布のふくろを肩にかけて薬を持ってきて下さった。そして、治療法もていねいに教えて下さった。それからさっそくこの薬を子どもたちにぬった。これもまた、文子先生の仕事だった。薬の効き目はてきめんだった。一週間もたたないうちに、全員治ってしまった。宿舎に再び明るさがもどってきた。
 薬の名はスカボールザルベというのだそうだ。それはともかくとして、私は、あの時の文子先生と川崎からわざわざ薬を持ってきて下さった井上先生を忘れることができない。